+浅葱空+
「あの阿呆、何処行った」
賑わう東京の町。
その往来で苛立ち気に舌打ちをしながら、一人の警官が足早に通り過ぎる。
今朝、登庁とともに任せた任務は、さほど手間の掛かるものではないもので、
2時間もあればそれを済ませ自分の所へ報告に戻ってくるはずであった。
しかし、昼を過ぎても一向に帰ってくる気配がなく、咥えていた煙草を乱暴に灰皿へと
押し付けると、乱暴に戸を開け放して出てきたのである。
何かあったのか
一瞬脳裏を駆け巡る不安は次の瞬間には鼻であしらい、小さな笑いにより掻き消される。
新撰組として京都にいた頃より、三番隊組長である自分の部下として、また同じ志を抱く同士として、
いくつもの激戦火を共に潜り抜けてきたのだ。
明治という大平の世で、そう易々とあいつが潰れるはずがない。
「となると・・・」元三番隊組長の男は、もう一つの予想を挙げ盛大に溜息をついた。
身の危険の心配はなし。すると浮かぶもう一つの心配は・・・・
「切れた凧が。残業決定だな」
職務がないとすぐさまどこかへフラフラでかける癖は明治となり、警官になっても変わらない。
いや治らない。
いっそのこと首輪をつけて机に繋いで置こうかと常々思っていたのだが、
本気で帰りに金物屋へ寄ろうと考え始める。
本当にフラフラしているとなると
男は二度目の溜息を吐き出すと、町はずれの河原の方へと踵を返した。
今までの習性からいって、あいつがどこか店に入ることはない、
川や寺などでボケーとしているのが常である。
今日は見事な皐月晴れ。少し暑いと感じる日であるから、おそらく河原でのんびりと涼をとっているに違いない。
男はそう口端を上げると同時に、部下が河原でのんびり昼寝をしている様を脳裏に描いた。
「残業を通り越して、徹夜作業にしてやる」
その頃河原では、のんびりと青草に寝転がる一人の警官がいた。
年は24,5頃か、一目で女とわかるその顔と体つき。頬を撫でる風がとても心地良さそうに
穏やか表情を浮かべ、黒く高い位置に結わえられた長い髪は、無造作に青草に広がっている。
これで、女物の着物を着ていれば、チラチラと視線を投げかけてくる男達に
囲まれていただろうが、女が身に纏っているは警察官と一目でわかる制服。
しかも一介の、町を巡回している警官とは少し型が違う制服である。
おそらく巡回警官より階級が上なのだろう。
人目引く美しい女でありながら、その身に纏う衣服。
しかし、当の女は周りがチラチラと視線を投げかけてこようが、知ったことかと
言わんばかりに寛いでいた。
登庁するいなや、上司から渡された任務に警視庁を後にするも、
見事に晴れ渡った空と少し肌に残る暑さに、思いっきり羽を伸ばしたくなった。
任務を終えたあと、少しくらいならいいかと河原へ涼みに出たが
居心地が良すぎて、そのままそこで少し寝てしまった。
任務報告が義務付けられているので、おそらく上司は「あの阿呆何やってる」と苛立ちながら、
灰皿を山にしているに違いない。そう薄く笑うと、そっと目を開いた。
茶色の大きな瞳が青空を捉える。
スッとその瞳が懐かしげに細められたその瞬間−
ゴッ
「っ!・・いったあい!!」
「、上司より先に休憩とるたあ、いい度胸じゃねえか」
脳天に走る激痛に、呻き声をあげ頭を抱える。
突然頭を走る痛みに、一瞬何が起こったのか慌てふためくが
冷気を伴った声が降り注ぐとピシリと体を凍らせた。
恐る恐る顔を上げれば、そこにはとても怖いくらいな穏やかな笑みを浮かべた上司の姿。
ぐわんぐわんと反響する頭を押さえ込みながら、男の部下− は
涙目でにへらと笑った。
「う〜あ〜・・・斎藤先生ぇ〜どうも〜;」
「なんだか、周りが光って見えるんですけど〜」と
いまだ呻いているを一瞥すると、斉藤は手にしていた刀を刀帯へと戻す。
その斉藤の仕草に、は一瞬目を丸くして慌てて立ち上がった。
「って、鞘で打ったんですか?!痛い!!
それは痛すぎです!先生!!」
「ふん、切れた凧よろしくふらふらと出歩くお前が悪い」
べしっと次は手で頭を叩いてやると、先ほどの余韻が残っているためかはへなへなと蹲る。
「だからって鞘でぶたなくても」とブツブツ文句を言うに、
口端を上げて見せると、の横へ腰を下ろした。
ふわりと青草の香りが鼻腔を擽る。夏の匂いがほのかにした。
胸袋から煙草を取り出して火をつけ、味わうようにゆっくりと煙を吐き出す様に
は不思議そうに首を傾げる。
「戻らなくていいんですか?」と問えば、斉藤はニヤリと笑った。
「あぁ、俺は正当に休憩時間だ。お前、帰庁したら警視総監がが待ってるからな」
そう至極楽しげにを見据えてやれば、ビシリと音を立てて固まる。
必死に、言い訳を考える横顔に思わず小さく噴き出した。
当のは、どうやったら警視総監の説教を短時間で済ませられるかと
本気で思案しているようで、斉藤が小馬鹿にしたような笑みを浮かべても
吸う煙草が二本目に入ることも気づかない。
しかし、その思案は長続きすることなく、は開き直ったようにがばりと
青草へと再び寝転がる。
「いいや〜v適当に相槌打ってればいいっしょv」
「ったく、相変わらずだなお前は」
そう呆れたように笑ってみせれば、寝転がったままケラケラと笑い出す。
さわりと川の涼を含んだ風が二人を撫でていく。
サワサワと青草の擦れる軽い音が、妙に心を落ち着かせた。
ゆったりとした時がここには流れている。
「先生〜」
「なんだ」
静かに流れる川を眺めながら、ゆっくりと煙を吐き出す。
のんびりとしたの呼びかけに、声だけを向けた。
「浅葱色です」
「・・・・主語を言え、阿呆」
「空が」
怪訝そうにを見やれば、懐かしそうに目を細めて空を見上げている。
それにつられて自分も空へと視線を上げれば、そこには雲一つない澄み切った青い空が広がっていた。
見事な浅葱色の空にが一面に広がり、鳶が気持ち良さそうに舞っていた。
あまり感情を表に出さない斉藤であるが、この気持ちのよいほどに澄み渡った空に
自然と笑みが零れる。
「私達新撰組の色です」
にへらとが笑う。少し意表を突かれたように息を飲み、
再び空へと視線を向けた。
浅葱色、新撰組の色。
いつも何気なく見上げている空なのに、今まで一度も気にしたことなどなかった。
見上げる空があの頃、自分たちが纏っていた隊服と同じ色であることに初めて気づいたのだ。
幾度となく見上げているはずの空なのに、隣でのんびり寛ぐ京都より自分の下で
剣を振るっていた部下に言われるまで、気づきもしなかった。
きっとそれは、空をゆっくりと眺めている間などなかったせいかもしれない。
鳥羽の戦から、新撰組は敗走への路を辿った。
生と死が常に背後に付き纏う日々。
土方と意見が分れ袂をわかち会津の残った時も、降伏したときも、流刑地に赴いた時も
幾度となく青空が広がっていたが、それが自分達が纏っていた浅葱と重ねたことなど
一度もなかった。それだけ余裕がなかったというわけか。
思えば十年振りに、ゆっくりと空を見上げたよう気がする。
それは世の中が平和である象徴なのかもしれない。
ゆっくりとが空へ手を伸ばすのを視界の隅で捉えると、ゆっくりと煙を吐き出した。
紫煙が細く空へと昇り、消えていく。
今や、はほとんどの仲間が黄泉の国の住人となった。
誰が生き残ったなど、把握できない状況でもある。
酒を交わした仲間、議論し合った仲間。
すべてが懐かしく思うのは、警官という職に馴染みすぎてしまったせいだろうか?
しかし、己の信念はあの頃と何一つ変わっていない。
あの頃より変わらぬ、揺ぎ無い信念で警官という職についている。
おそらくそれは自惚れではないと確信している。もし自分が気づかぬうちに
その信念を捨てていたとなれば、隣でのんびりと寝転がるこの部下はすでに傍らに
いないだろう。
不意に視界の隅で捉えていたがかすかに震えたのに気づいて見やれば、
苦しそうに強く目を瞑り、両手で肩を抱いていた。
不審に思い、そっと頭を撫でてやれば、ハッとしたように顔をあげ自分へと
恐る恐る顔を上げる。
その目がどこか狼狽えているようで、斉藤は僅かに眉を潜めた。
「どうした」
「あ・・なんでもない・・です」
先ほど自分に向けていた、へらへらした笑顔は消えうせ、
無理に笑って見せようとするに、斉藤はますます怪訝そうにを見やった。
優しく頭を撫で続けてやれば、は少し安心したように目を閉じる。
「夕焼けが・・・」
「夕焼け?」
何を言い出すかと思えば、そろそろ陽が傾き落ちる刻か。
首を巡らし西の方へと見やれば、かすかに空が朱色に染まり始めていた。
いったいなにが言いたいのかと口を開くより先に、の震えた声が斉藤の鼓膜を突き刺す。
「浅葱が燃える・・・」
ハッとしてへと視線を戻せば、また苦しそうに胸を押さえて丸くなっていた。
きつく閉じられた目尻から薄っすらと、涙が滲んでいる。
「おい」
「燃えちゃうよぉ・・・」
呼びかけにまるで反応しないに、斉藤は煙草を揉み消す。
まるで心だけが過去に遡ってしまったかのように、目を虚ろに空を漂わせている。
幾度となく見た戦火。それがいまだにを捕らえているのか。
咽喉をしゃくり上げ始めたへとそっと手を伸ばし、その細い体を優しく、けれども
力強く抱き寄せた。
ぴくりと体を強張せるの頭を撫で、その耳に諭すように、呪縛を解くように呟く。
「過去に囚われるな。俺を見ろ」
フルフルと目を彷徨わせながらも、やがてぴくりと自分を視界に入れたに
小さく頷き、そっと頬を撫で上げてやれば、それを受け取るように静かに目を閉じる。
自分の下で剣を振るっていた従順で、最も信頼を置いていた少年部下が女と気づいたのは、
鳥羽伏見の戦後。
負傷したの手当てをするために着物を脱がした際に発覚した。
男と偽り騙されていたことよりも、見抜けなかった自分に腹が立った。
同時によく今まで女ということを隠していたと感心したのも事実。
局長と副長、そして副長助勤達と話し合った結果、今までの功労を称え切腹は免除。
新撰組から追放となったが、はそれを拒否した。
最期まで新撰組として生きたいと。それが叶わぬのなら切腹に課してほしいと。
局長達の前ということを顧みず、斉藤とは長い時間に渡って激しく口論をした。
新撰組が激戦を繰り広げるのは目に見えていた。女は足手まといになるだけであると。
しかし、は引かなかった。思えば上司である自分に歯向かったのは後にも先にも
この時だけだったか。
結果は今腕の中で震えている通り、は会津に残り戦い降伏し、流刑の地にまで俺を
上司とし付き添った。
あの時、こいつは自分の下を離れ土方とともに仙台へ向かうと思っていた。
個人の信念に任せて、自分の下を去った部下もいたが、だけはまっすぐに瞳を
土方に向けたのだ。
「私は斎藤先生の傍にいます」
新撰組として、三番隊の隊士として生きると。自分の上司である斉藤に最期まで尽くすと。
はっきりとした口調に、土方は力強く頷いたのだ。
自分の下に留まったことに、斉藤はかすかに喜びを覚えた。
それはが女であったからではなく、信頼し続けた部下が最期の最後まで自分を選んだことにだ。
その信頼がいつ、どこで恋愛感情に変わったのか覚えてなどいない。
流刑の地で何気なく妻を迎えた時も、は静かに見送った。
それが妙に苛立たしかったのは覚えている。
やがてを伴い警察官となり、西南戦争へ赴くと同時に離縁をした。
なぜかその方が良いと心の隅でちらついていた。生きて帰れぬ予兆だったのかはわからない。
戦場でもは常に斉藤の背を守っていた。銃弾が肩を打ち抜いても、刀が腹を掠ろうとも
は片時も斉藤から離れることはなかった。
「私の目の前で先生は殺させない!」
休戦時、の肩を手当てしながらなぜそこまで俺に尽くすと問えば、
ボロボロになりながらも「なぜでしょうね」とにっこりと笑う部下に斉藤は固く心を決めた。
生きて帰る。そしてを一生傍においておく。
「」
「もう・・大丈夫です。その・・すいません」
ゆっくりと動くの顔を覗き込めば、少し頬を赤らめながら小さく笑ってみせる。
一瞬、夕焼けを視界に入れ苦しげに顔を歪ませるが、それは優しく振ってきた斉藤の口付けに
解かれることになる。
心に巣食った過去を溶かすように唇から伝わる優しい熱に、は静かに瞳を閉じる。
目尻からつっと銀の雫がゆっくりと頬を伝った。
ゆっくりと離れる感触にそっと瞳を開ければ、穏やかな琥珀の瞳がを捉えており。
「浅葱は消えん」
頬を伝う雫を指で掬い取り、そっと自分の中へと抱き入れた。
華奢な背中を抱きしめながら、空を見上げる。
陽の炎がゆっくりと浅葱を燃やしていく。
「明日も明後日も浅葱はこの空に翻る」
「先生?」
不思議そうに見上げてくる愛しい女に、穏やかに笑ってみせると
そっとその頬に掠めるだけの口付けを落とす。
「浅葱は燃えても消えん。俺とお前が生きている限りな」
そう、生きていれば何度も浅葱色の空を見上げることができる。
一日の終わりに浅葱が焼かれようとも、次の日にはまた浅葱が翻る。
消えることはない。
それは斉藤との京都の頃から持つ信念と同じことだ。
「冷えてきた、戻るぞ」
「あっ・・もうちょっとこのままで・・・お・・お願いします;」
背中から伝わる熱が、じんわりとを包み込んでいく。
それと同じ、斉藤の言葉もじんわりとの心を包み込んでいた。
小さく息を吐き出しながらも、抱きしめてくれる斎藤ににっこりと微笑み、ゆっくりと空を見上げる。
「浅葱は消えない・・」
「当たり前だ」
返ってきた言葉はとても素っ気無いものであったけど、にはとても
何にも屈しないと力強く、温かいものであった。
サワサワと風が二人の上を駆け抜けていく。
まるで、今は亡き仲間達が笑っているかのように。
+あっとがき+
天気の良い日に外でヨガをしていたら、雲ひとつない青空でした。
ふと「あれ・・浅黄色だ」となんだか嬉しくなり、書いてみました。
明治へと生き残った新撰組の方々もこんな浅黄色の空を見上げて、思いに耽っていたら・・と
思うとなんだか時代を越えたようで、とても不思議な気分になったりして。
2006年5月21日執筆