事件現場「地中海ナポリ」の店内は、事件とは別の張り詰めた空気が流れていた。










由香里たちやレストラン従業員が不安な表情で見守る中、伊丹とはもう長いこと睨みあっていた。
数分の出来事なのに重くのしかかってくる威圧感に一秒、一分がとても長く感じられ。
互いに相手の出方を伺っているようにも見える。先手を打ったのは伊丹だった。



「毎回毎回余計なことずけずけと言いやがって」


敵意丸出しの目がを苦々しく睨みつける。伊丹の言葉にの顔にも苛立ちの色が差し込んだ。


「それはあんたの方でしょ?いつもいらんことまでしてくれてさ!
こっちのことも考えて行動なさいよ!」

「んだと、てめえ!」

「っは!都合が悪くなるとすぐ怒鳴る」

「いい加減にして!」


店内の空気がさらに険悪なムードに染まりはじめた瞬間、伊丹でものものでもない第三者の声が
店内いっぱいに響き渡った。
ぴくりと肩を揺らす伊丹との横には、さっきまでエレベーター前で椅子に腰をおろし
一番ショックを受け青ざめていた雪江が、すごい剣幕で二人を睨みつけていた。
普段から物静かな雪江は滅多に大きな声など出さないのであろう、興奮気味に肩を上下させ
頬はピンク色に上気し、瞳は少しばかり潤んでいた。
しかしその目は厳しく二人を見据えている。


「いい加減にして。今はあなた達二人だけが頼りなのよ?」


雪江は急に声を落とし、呟きながら顔を俯かせた。
そんな彼女に伊丹とは罰が悪そうに顔を顰める。


「ごめん・・雪江」


首を垂れ、小刻みに震えている雪江の肩をそっと抱いてやれば、そっと添え返される
雪江の弱々しい手。その表情はまだ伏せられていて伺えないけれど、
微かに響いた声をはしっかりと聞いた。


「お願い。坂下さんを殺した犯人必ず捕まえてね」


雪江を抱き支えたまま由香里達がいるエレベーター前へ向かうと、そっと雪江を座らせた。
申し訳なさそうに由香里や轟達に「ごめんなさい」と頭を下げる。由香里は小さく微笑みながら
の頬をちょんと軽くはたき、サイドバックからハンカチを取り出してポロポロと涙を
零し始めた雪江に差し出した。
自分に渇を入れるようにパンパンと両手で両頬を叩くと、さっと伊丹がいる所へ踵を返した。


「ごめん」


真っ直ぐに伊丹を見つめて心から謝れば、伊丹も気まずいと思っていたのであろう。
やや恥ずかしそうに視線を泳がせながらに向き直った。


「その・・俺の方こそすまない」




やっと本来の調子を取り戻した伊丹とは、捜査を再開した。
ふと、はテーブルに置きっぱなしにしていた自分の携帯電話に気づき、慌ててそれを取り上げた。
携帯電話のボディが青く点滅している。着信があったことを告げるサインだ。
おそらく伊丹との口論で気づかなかったのであろう。
重大な電話だったらどうするのだと厳しく自分を罵る。画面を表示させるとそれは着信ではなく
杉下からのメールだった。
2・3行書かれている内容にの目が僅かに見開かれ、その視線を素早くテーブルに向ける。
食べかけの料理に各々の取り皿、口拭き紙にこの店オリジナルのビール瓶・・・一つずつ確かめるように
指をさしながら確認しているに伊丹は怪訝そうにの顔を覗き込み、テーブルへ視線を移した。

「どうした?」

「そうか・・・きっとそうよ!」

目を輝かせながら自分自身に頷くと、勢いよく伊丹へと振り向く。


「青酸カリが付着していたものよ!そうよ・・そうだわ!」


は伊丹の腕をとると、店内の一番奥予約には使われなかったテーブルの方へと促した。
ここなら小声で話せば由香里や轟達に聞こえない。


「おしぼりよ!杉下警部からメールがあったの」

「う;また特命かよ;」


杉下と聞いて顔を歪める伊丹に気にせずは続ける。


「杉下警部は「もうテーブルにはないものに毒が混入されていたのかもしれない」と送ってきたの。
で、テーブルをよく見て。きっとそれは「おしぼり」よ」

に急かされながらテーブルへと視線を移す。
皿・グラス・おしぼり・・・・


「おい、手拭はあるぞ・・・・いや・・・そうか!」


伊丹もハッとしたように頷いた。そこで支配人を呼びつけると一緒に厨房へと入っていく。


「えぇ、あります。本当なら20〜30分前には業者が取替えにくるのですが、
今夜はエレベーターが止まってしまって・・・」

「いや、これは助かった」

厨房奥に置かれたそれをみて、伊丹は思わずにやりと笑った。
厨房から顔を出し、に合図をすれば力強く頷いてみせる


「ここからはお前の仕事だ」

「うん!」

厨房内にストックされていたゴム手袋をもらいはめると、奥へ置かれたそれを見据えた。
そこには使用済みのおしぼりがプラスチックの箱いっぱい入っていた。
調理台を借りて一枚ずつ取り出し調べはじめると同時に、伊丹はもう一度支配人を呼びつけた。

「予約名簿と客のリストを拝見したいのですが」

「はあ、かしこまりました。ですがお客様リストのようなものは・・
アンケート票ならございますが・・・」

「それでかまいません」


レジ下へと屈みこんだ支配人を見つめながら、伊丹の頭はぐるぐると思考を張り巡らせていた。

(手拭は決まった時間に業者が取替えにくることになっていた。もしこの犯行が完全犯罪を狙った
ものならば・・・客に出す手拭を定期的に替えること、俺達がいるこの時間に業者が来ることを
知っていた。ということは以前にもこの店に来たことがあるに違いない)


そう思ったのだ。
しかし伊丹は目の前に由香里や轟たち達がいるのにも関わらず、あえて彼らから直接聞き出すことは
しなかった。なぜかその方がいいと思ったのだ。
やがて、支配人がA4サイズの高級そうな革張りのファイル1冊と、B5サイズの淡いグリーンのファイルを
三冊を手に伊丹のところへ戻ってきた。
A4サイズの皮のファイルを差し出す。

「こちらが予約名簿です。一冊で過去5年分ほどありますがグループ予約の場合、
代表者の名前と来店人数しか控えません・・・そしてこちらがアンケート票のファイルです。」

ファイルを受け取ると伊丹は店内の奥のテーブルに腰を下ろし、アンケートファイルから取り掛かった。
予約名簿には代表者の名前しか書き込まないため、情報は得られがたいと割り切ったのだ。
今月分、先月分、先々月分とていねいにめくっていく。
アンケートはテーブルの隅に設置されたもので、店内の雰囲気や接客態度、料理について意見を求めるもので、
決して強制のものではない。そのため、月があいているものあれば一月にたった数枚というのもあり、
伊丹は落胆の溜息を吐き出した。完全犯罪を狙ったものならばそう易々とアンケートに
こたえることなどしないであろう。
これは的外れだったと諦めはじめたその時だった。一枚のアンケートに伊丹は目を留めた。
それは一年前のアンケートで記入者は殺害された坂下だった。アンケートの内容は
他のアンケートと同じビールが上手かっただのと書かれていたが、伊丹はふとある文字に
目を留めた。それは一緒に来店したのであろう女性の名前のようだ。
坂下の名前の横に滝乃 里美と記入されている。どこかで聞いたことのある名前だと
首を傾げた次の瞬間、伊丹はハッとしたように思い出した。



「もしこの時に何らかの問題があったとすれば・・・」




「あった!」


厨房の奥で嬉々としたの声が鼓膜を振動させ、伊丹は弾かれるように顔を上げた。
一枚のおしぼりを取り上げ誇らしげに微笑んでいる。
そんなの表情に複雑な気持ちになりながらファイルを手にしたまま厨房へ向かった。

「おう、出たか?」

「あ、うん!これよ!坂下さんの死因となったものに間違いないわ」

「そうか」

あれほど、坂下を殺した奴は必ず見つけてやると意気込んでいた伊丹の声が
冴えないものに、は怪訝そうに首を傾げた。
伊丹は手にしていたファイルをに差し出し、例の女性の名前を指し示した。


「この滝乃里美という人物に心当たりはあるか?」

「え?あれ?里美ちゃん?由香里の妹さんよ。」

やはりそうかとやや表情を明るくして頷く伊丹に対し、今度はの表情が雲った。


「亡くなっているわ」

「!本当か?!」

思いがけない答えに伊丹は動揺の色が隠せなかった。
亡くなった女性と坂下はどんな間柄だったのだろうかと好奇心がうごめくが、の表情は
さらに曇る。

「自殺したの」

「・・・自殺?」

「うん・・・一年ほど前に。なんでも付き合っていた相手にお金をだまし取られた上に
良いように利用されていたみたい。たしか相手は資本家だかの息子で、取引相手の接待やらで
やりたくないことまで無理やりさせられて、とうとう発狂してビルの屋上から・・・・」

「そうか・・・・・・・・・・・・おい・・待てよ」

の話に表情を険しくしていた伊丹だったが、急に胸がざわつきアンケート票へと視線を移した。


「おい・・。もし自殺した妹さんが付き合っていた相手が・・・坂下だったとしたら?」

「え・・・」

「もしそうだとしたら・・なぜ坂下の手拭きにだけ、青酸カリが混入されたかについても説明がつく」

「え・・え・・・どういうこと?」


不思議そうな表情のを伊丹は真っ直ぐに見つめた。
まるで覚悟をしろといわれているような感覚に、の体に緊張が走る。
メモ帳を取り出し説明を始めた伊丹の言葉に耳を傾けていくにつれ、の表情は
みるみると凍りついていった。





「そんな・・・・でもっ」

「だが、あの人にしか犯行は無理だ」


信じられないと言う表情で伊丹を見つめるも、返される表情はとても固いもので。
二人は厨房を出ると皆がいるエレベーターのところへと足を向けた。
そこには儚い微笑みを浮かべた滝乃 由香里が静かにを見つめていた。